令和6年能登半島地震における当院の活動報告
令和6年1月1日に発生した能登半島地震の災害支援として当院のAMAT隊が1月8日~11日に被災地に出動しました。
AMATとは、All Japan Hospital Medical Assistance Team の略称であり、「災害の(急性期~)亜急性期において、災害医療活動の研修を受け、災害時要援護者※1にも配慮した医療救護活動を行なえる医療チーム」として、「防ぎえる災害関連死※2」を無くすことを主目的として活動する、全日本病院医療支援班のことを指します。
※1 災害時要援護者;小児、妊産婦、高齢者、有基礎疾患者、障がい者、外国人、旅行者、要介護者等を指すものとする
※2 災害関連死;(狭義には)災害による直接的な被害ではなく、その後の避難での環境等による体調悪化など間接的な原因で死亡すること
公益社団法人 全日本病院協会 AMAT(全日本病院医療支援班)
https://www.ajha.or.jp/hms/amat/から転載
・被災地の状況と支援の必要性
建物の倒壊やライフラインの破綻(道路、電気、ガス、水道など)、土砂崩れなどを引き起こし、多くの方々が避難所生活を強いられ、食糧、その他の生活物資が不足している。また、避難所での新型コロナやインフルエンザなどの感染症の流行、薬剤の不足などによる慢性疾患の悪化、心的外傷など、様々な疾患が生じている。 物資の輸送や災害関連死の防止など、依然として物的支援、医療支援が必要な状況である。
・当院の災害支援への取り組み
当院の設立は1923年の関東大震災で自らも被災した九条武子夫人が被災者の救護所を設けたことに端を発しており、災害医療支援は当院の理念にも合致している。また、当院が所属している伯鳳会グループは、災害医療支援に貢献すべく、定期的にグループ全体を通して合同災害訓練を行っている。
・移動、到着後の活動の詳細
活動期間は1月8日から1月11日までの4日間。 JR新高岡駅まで北陸新幹線で移動し、旭ヶ丘病院看護師と合流。あそか病院・旭ヶ丘病院AMAT隊を結成した(医師1名、看護師2名、業務調整員2名の合計5名)。そこで先に現地入りしていた東京曳舟病院の救急車を引継いだ後、能登AMAT調整本部(公立能登総合病院 =七尾市)へ移動。現地での活動を開始した。 初日は河北総合病院から同本部で連絡調整業務を引継ぎ、担当被災地である能登町の情報収集や共有、AMAT隊の派遣、DMATやJMATとの連携業務を行った。2日目以降も最終日まで同業務を行う予定だったが、能登町の一部の避難所でインフルエンザの流行など医療ニーズが増したため、本隊からAMAT本部へ現地への出動を上申した。その結果、3日目は同本部に業務調整員1名を残して残り4名で能登町避難所の巡回診療を行うこととなった。避難所の現状把握やニーズの抽出、健康チェック、罹患被災者の早期発見、定期処方薬の災害処方箋発行など行った。 同本部から能登町まで、高速道路を含めて通行止め多数あり。また通行可能な道路もひび割れや土砂崩れなどで徐行を強いられ、被災地が半島であるという地理的な問題も相まって、現地への道路は混雑が非常に激しく、行き来に非常に時間を費やした。 最終日は終日、同本部での連絡調整業務を行った。DMAT、JMATへの被災者業務の引継ぎを行い、同日をもって全AMAT隊が完全撤収となった。
・支援活動の成果や効果
日々刻々と変化する被災現場の医療ニーズに対し、指揮命令系統から逸脱しないよう注意を払いつつ、本隊からの積極的なアクションによってまだ医療支援が届いていない避難所を開拓できた。指示待ちに徹するだけでなく、時には現場のニーズを抽出した上で上層部に意見を提案することも重要であると思われた。
・現地の声や感謝の表明
避難所などでは特に、医師の訪問は感謝された。また、宿泊先や立ち寄ったコンビニでも、支援活動に対する感謝の言葉をかけていただけた。
・最後に
今回の活動をもってAMATは全隊が撤収となったが、まだまだ支援が必要な状態であり、復興にはかなりの時間を要すると思われる。この記事を読まれた方々も是非、ともに何らかの形で、被災者の方々を支援していただけたらと思う。
業務調整員 田辺職員(左) 古川医師(真中) 業務調整員 山中職員(右)